会社員を辞めて無職になった僕がたった2ヶ月で15万稼いだ。自己紹介とバンの理念「やりたいことをやる」

プロフィール

はじめまして、バンと言います。

この記事を見ていただきありがとうございます。
自己紹介します。

僕は今、毎日楽しく情報発信をしています。

X(Twitter)やYouTubeで発信しながら
自分の商品を売って生活をしています。

そんな僕ですが、新卒で入社した会社を
たった1ヶ月で辞めました。

正確に言うと、
辞めたのは入社4ヶ月後です。

しかし、入社1ヶ月で適応障害になりました。
そして、休職期間を経て仕事を辞めました。

だから実質1ヶ月で辞めたのと同じです。

ちなみに家族構成は
父、母、兄、僕の4人家族です。

この記事ではそんな僕の幼少期からの話をまとめています。

これを読めば僕の人生が
全てわかります。

幼少期はどんな人だったのか、
抱えているコンプレックスを赤裸々に語ります。

ぜひご覧ください。

恥ずかしがり屋の幼稚園時代

まず幼少期について。

僕の幼少期はとても恥ずかしがり屋
という一言で説明できます。

幼稚園の運動会のリレーは
恥ずかしくて1人で走れなかったです。

だから先生に手を引っ張ってもらって
一緒に走ってもらう。

これぐらい恥ずかしがり屋でした。

人前に出て何かをする
なんてこともありませんでした。

また、僕は昔から
落ちこぼれの人生でした。

小学校に入る前になってもひらがなですら
自分の名前が書けませんでした。

他にも「1+1=2」ということすら
わかっていませんでした。

他の子は分かっているのに。

こんな幼稚園時代を過ごし、
不安な気持ちを抱えたまま小学生になります。

全ての根幹を築いた小学生時代

幼少期の経験や環境。

これが今の僕の根幹になっています。

幼少期の性格を軽くまとめます。

・恥ずかしがり屋
・活発な一面もあり
・素直
・他人の目を気にする
・負けず嫌い
・コンプレックスを抱える

小学生時代は幼稚園時代と打って変わって、
とにかく活発になりました。

恥ずかしがり屋な一面は変わらずありますが、
友達もたくさんできました。

友達とサッカー、野球、ドッジボールをして
遊んでいましたね。

習い事は水泳、塾をしていました。

兄がドッチボールを習っていた関係で
たまに練習に参加したり大会にも出たりしました。

少し自慢ですが、ドッジボールが上手かったので
ずっと入部を勧誘されていました。

ただそこでも、お得意の恥ずかしがり屋を発揮します。

入部したい気持ちはあったのですが、
僕は当時、僕を勧誘してくれた女の子のことが好きでした。

「一緒にドッジボールやろうよ!」
「バン君ドッジボール入らない?」

何度もこういう風に誘ってくれました。

でも恥ずかしかった僕は素直に「入る!」とは言えず、
結局、入部はしませんでした。

また、親から聞いた話だと
僕は兄と一緒にされるのが嫌だったそうです。

「お兄ちゃんがドッチボールをやってるからバン君もやるんでしょ?」とか
「お兄ちゃんが中学受験したからバン君も中学受験するんでしょ?」とか。

そういうのがとにかく嫌だったそうです。

話を変えると、僕は昔から体を動かすことは好きでした。

野球やサッカーなどのスポーツをすることが好きでした。

でも、勉強は驚くほど嫌い
かつできませんでした。

優秀とは遠くかけ離れていました。

これは僕のコンプレックスでもあります。

「突出した能力が何一つない」
という劣等感を抱えていました。

算数は小学校一年生でついていけないし、
理科も社会も何を言っているのかわかりませんでした。

小学校のテストなのに
50点以下は当たり前。

恥ずかしい話ですが、どうしても点数を取りたかったので
カンニングをしたこともあります。

それでも50点を取れないなんて、
どうしようもないですね。

また、学校って席替えがありますよね?

でも小学校1年生の時は
なぜか、ずっと1番前の席でした。

当時の僕は全くそのことに
気付いてなかったですけどね。

でもこれは先生が
意図的に仕組んでいたそうです。

どんな意図があったと思いますか?

僕は周りの子のように
授業についていけませんでした。

皆は理解してるのに
僕は理解できていない。

こんなことは当たり前の話でした。

だから僕が授業についていけてない様子を把握するために
1番前の席になるように配置されていたそうです。

大人になってから、この話を親から聞いた時は
さすがに自分でも驚きましたね。

「俺って昔から落ちこぼれやったんや」

って。

席の場所を先生が意図的に操るぐらい
僕は学力を心配されていました。

算数の話で言うと僕は空間認識能力、
読解力がなかったんです。

図形の問題、文章問題が
さっぱり分かりませんでした。

展開図とか何一つわからなくて
泣きながら学校の宿題を解いてました。

文章問題に関しては
問題を解く以前の話です。

問題文が何を書いてるのかが
理解できないんです。

「これどういうこと…何を答えればいいの?」

ってなってましたね。

だからもちろん、
回答のしようがないですよね。

でも唯一できた問題の種類があります。

それが計算問題です。

なぜ計算問題だけ出来たかというと
公文に通っていたからです。

「くもん、いくもん!」で有名な
あの公文ですね。

僕はこの公文で得た成功体験で
一つの能力を手に入れます。

公文の算数は計算問題を扱います。

でも公文に通ったからすぐに
計算問題が解けるようになったのか?

もちろん答えはNoですね。

僕の劣等生ぶりは
公文でも変わりませんでした。

当たり前の話ですよね。

公文に行ったからって、すぐに
勉強ができるようになるわけないですよね。

最初は全く解けなかったです。

「これ皆んな解いてるん?やっぱり俺ってアホなんや。。。」
って思ってました。

でも、そんな僕でも次第に
解けるようになっていくんです。

なぜかというと、公文は
圧倒的な反復練習があるからです。

公文は絶対に全問正解するまで
次の教材に進めません。

宿題も全問正解する必要があるんです。

これのおかげで僕は
なんとか計算問題はできるようになりました。

公文では学校で習う単元より
先に進んで勉強していました。

だから、公文で先に学習している単元は
学校でも理解できるといった感じです。

この経験が今の僕に繋がっています。

僕は周りよりも
能力的には劣っている。

でも時間をかけて何度も繰り返せば、
自分にもできる

そして、周りよりも上にいける。

こういうことを学びました。

その理由は、「公文のおかげで学校の点数で高得点を取る」

という成功体験があったからです。

これは中学生の時の話ですが、
中学生の数学のテストで
97点を取ることができました。

劣等生だった僕には
とてつもなく嬉しかったですね。

それと同時に100点を取れなくて悔しい
という感情を抱いたことも覚えています。

この経験から僕は
「継続して数をこなせば成果は出せる」
ということを学びました。

そして、この継続のエピソードからもわかるように僕は

とてつもないぐらいの負けず嫌いでした。

エピソードとしては、
将棋、オセロで負けた時の話があります。

小学生の時は親とボードゲームで遊んでいました。

本当にただの遊びです。

でも負けたら悔しくて
すぐに大泣きしていました。

学校とか公文の宿題も分からなくても
泣いてまで最後まで解きました。

どれだけ時間がかかっても
絶対に終わらせていましたね。

僕は劣等生という
コンプレックスを抱えています。

でも僕はそこから「悔しい」
っていう気持ちを原動力にできます。

「あいつより劣ってる」
「あいつみたいになりたい」

そんな気持ちが僕を突き動かします。

昔は負けて悔しいで終わっていました。

まだまだ僕のコンプレックスはあります。

次はお金へのコンプレックスです。

僕は小学生の時から父親が
「金がない、金がない」
と言ってるのを聞いてきました。

父親の年収はめちゃくちゃあるはずなのに、
なんでそんな金がないのかは気になるところです。

「僕や兄のために沢山使ってくれたんだろうな」

こう思って感謝はしています。

ちなみに僕が大人になった今でも
「金がない、金がない」と言っています。

この父親の発言が、今の僕に
影響してることは間違いないです。

今の僕はかなり欲が少ないが、
「お金が欲しい」という気持ちはあります。

なぜなら小学生時代に、お金がないことが理由で
欲しいものを我慢したからです。

普段から「お金がない」と父親が言ってるのに、
自分が欲しいものをねだれなかったんです。

外食をする機会は多かったけど、
真っ先に値段を見て安いものを注文していました。

旅行先で食べ歩きをする時も、
「あまり欲しいものがない」と嘘をついて何も食べなかった。

本当はとてもお腹が空いてて、
色んな物を食べたかったです。

でもこのように幼少期に我慢してたことって
それを手に入れると爆発するんだと思います。

今の僕は衝動買いが多かったり、
貯金残高がなくても欲しいものなら買ってしまいます。

でもまぁ、

「お金がなくても人生なんとかなる。」

そう思ってるので、
使いまくってます。

知識に投資しまくってます。

お金へのコンプレックスはこんなところです。

良くも悪くも僕は
お金に取り憑かれています。

じゃあ、勉強以外の性格面はどうだったのか?

僕は昔から「やりたくないことは続かない」

そういうタイプでした。

一回始めても好きじゃないとわかったら
習い事はすぐに辞めていました。

母親は僕がそういう性格だと
理解してくれていました。

だから親から無理に
「あれをしなさい!これをしなさい!」
と言われることはありませんでした。

性格的にはまだ恥ずかしがり屋な一面もあったけど、
幼稚園の時ほどではありませんでした。

でも一つ問題がありました。

それは「ピュアすぎる」ということです。

良い風に言えば、ピュアで素直。

悪く言えば、自分の頭で考えず
言われたことだけを言われた通りにする子。

もちろん当時はそんな認識はなかったです。

でも今思うと、そうだったなと思います。

その後、何十年も引きずることになる
悪魔の一言があります。

それがこれです。

「みんなと仲良くしましょうね。」

小学生の時って学校の先生から
「みんなと仲良くしましょうね」と言われますよね。

僕はこれを忠実に守ろうとしました。

具体的に当時の僕は
どういう行動、態度を取ったのか?

「相手に合わせる」

これを徹底していましたね。

こういう思考回路です。

みんなと仲良くしよう→嫌われてはいけない→嫌われないためには相手に合わせよう

こういう思考をしていました。

そうすると、いつからか
相手に嫌われないような行動、言動をするようになっていました。

知らない話題でも知ってるかのように話していましたし、
見てないテレビも見たと言って会話の輪に入ろうとしていました。

もし知らないと言えば、話についていけず、友達が離れる。

そう思っていて、そうなるのが怖かったんです。

人に合わせた行動、言動をするので
「自分を出す」ということができなかったです。

「この発言をしたら相手はどう思うかな?」

「こういう行動を取ったら嫌われるかな?」

常に相手の目を気にしていました。

でもそのおかげで、
相手の気持ちに敏感にもなりました。

困っている子がいたらすぐに気付けるし、
相手に合わせた言葉選びや気遣いができました。

小学校の時は家庭訪問がありますよね。

その家庭訪問で小学校1年生から6年生の担任の先生が
共通して言っていたことがあります。

何だと思います?

「バン君は困っている子がいたらいつも助けてますし、
気遣いもできる優しい子ですね。」

これです。

こういう内容のことを全ての担任の先生から
言ってもらえました。

相手の目を気にするばかり
相手の気持ちを予測する能力がついたんです。

少しの変化にも気付くようになりました。

こういう僕なんですが、
日記を書くことが好きでした。

もしかしたら日記では唯一、
自分の本音を書けるから好きだったのかもしれないです。

小学校の時「あのね帳」というのがありました。

「先生、あのね」で始まる日記です。

書いた日記を読むのは
自分と先生だけです。

だから周りに合わせる必要がない。
自分の好きなことを書けました。

僕は毎日日記を1ページ以上は
書いていました。

少し恥ずかしがり屋で
周りに嫌われないようにしてた僕。

そんな僕にとって文章を書くということが
唯一自分を表現できる場所だったのかもしれないです。

今振り返るとそう思います。

思春期のお手本のような中学生時代

中学生時代はザ・思春期
という感じでした。

反抗期自体は、小6の終わりから来ていました。

性格的なところは
あまり変わってないです。

周りに気に入られるために
いい子ちゃんを演じていました。

嘘をついてるわけではないけど、

本音で言いたいことを言う
というよりは周りの顔色を伺って話していました。

人間関係は主に部活動のメンバーと
仲が良かったですね。

ちなみに僕は中学、高校と
サッカー部に所属していました。

学校生活は登校から下校まで
サッカー部の友達と一緒。

休み時間や授業の移動も
一緒に過ごしていました。

休日も午前中は部活をして、午後は
近くのマクドを食べ後に公園でまたサッカー。

夏休みは部活のメンバーとプールに行く。

こういう感じでしたね。

勉強は相変わらずできませんでした。

定期テストをなんとなくこなして
遊びをメインに過ごすという生活でした。

この時期は反抗期なので
親にはとても反抗してましたね。

兄にも反抗をしていました。

なんなら公文の先生にも
反抗していました。

当時の僕は反抗期ですが、
反抗してる自覚はありません。

大人になって親から聞いて
「そうだったんだ」という感じです。

中学生の時にある趣味ができます。

それがアニメです。

友達から「SAO」という
アニメを教えてもらってハマりました。

「ソードアートオンライン」
という超人気作ですね。

僕は思春期ということもあったのか
ラブコメが好きでした。

お気に入りの作品はこちら(ラブコメ以外もあり)
↓↓↓

・ニセコイ
・オオカミ少女と黒王子(初めてオールで一気に見た)
・俺ガイル
・エロマンガ先生
・青ブタ
・君のいる町
・シュタインズゲート
・ゲーマーズ
・はじめてのギャル
・さくら荘のペットな彼女
・政宗くんのリベンジ
・はたらく魔王さま
・ゴールデンタイム

アニメは今でも好きで見ています。

アニメを見るようになってから
陰キャラ寄りになったかもしれないです。

ぶっちゃけ中学の時は将来のことを
特に考えず毎日楽しく暮らしていました。

なので今に繋がる経験があるかと言われれば、
何も出てこないです。

毎日をなんとなく過ごして
なんとなく生きるという中学生時代でした。

成長した高校時代

高校時代は今の僕に
影響してる部分が多いです。

・高校時代でついた癖
・気付いたこと

この2点が大きく影響を与えます。

具体的にはこんなことです。

・しんどいことから逃げる癖
・自分は何も考えず生きてた、言い換えると皆はそんなに考えているのか。

一つずつ話していきますね。

まずは「しんどいことから逃げる癖」についてです。

僕の通っていた高校は
偏差値でいうと49、50ぐらいの学校でした。

家から自転車で
20分ぐらいの地元の学校です。

そして、たまたま僕が高校生になる
数年前から学区が変わりました。

学区が広くなり、少し離れた地域からも
通えるようになったんです。

そしてその少し離れた地域の子たちが
ヤンチャ集団でした。

それに対して、僕の地元は
どちらかというと真面目寄りの子が多かったです。

その地域柄もあり中学の時は、
真面目に勉強も部活も頑張っていました。

体育の長距離走とかは純粋にタイムを競って、
勝った負けたと言い合って楽しんでいました。

でも高校ではヤンチャ集団が多かったこともあり、
そういったこととはほぼ無縁になりました。

勉強はそんなに熱を入れないし、
体育の長距離走は歩くの当然でした。

別にそれが悪いとは言ってません。

でも、人間はやっぱり
環境に染まる生き物です。

もちろん僕は
その環境に染まりました。

勉強はあまりしないし、授業中は寝る。
体育テストのシャトルランはすぐ諦める。

こういう風になっていってしまったんですね。

これが何を意味することは何でしょう?

今振り返るとこう思います。

「楽な方に逃げていたなぁ」

特に体育テストは
僕の中で大きい出来事です。

シャトルランや長距離走は
自分との戦いです。

プロじゃないから
記録を追い求める必要はないです。

とは言ってもしんどいし、
すぐ辞めたいけど頑張る。

これは少なからず忍耐力に
影響をします。

要は自分との戦いに
立ち向かうか逃げるか。

僕は高校3年間、常に
この2択で「逃げる」を選択したんです。

高校1年生の体育テストは
環境に染まる前だったので頑張っていました。

しかし、高2、高3では
完全に環境に染まって逃げました。

この楽な方に逃げる癖
というのは部活動でも出ました。

顧問の先生が部活動の練習に
出てこれない日がありました。

この日は練習をサボりました。

夏の合宿では試合前なのにもかかわらず、
近くにあったベンチで寝てしまいました。

起きた時には試合時間に間に合わない

なんてこともありました。

その後、顧問の先生には
「お前は責任感がない」と怒られました。

至極真っ当な意見ですよね。

今振り返ると、そんな風に怒ってくれた
顧問の先生に感謝ですね。

当時は僕は心が腐ってたから

「なんか言ってるわ」

ぐらいにしか思ってませんでした。

こういう経験が他にも積み重なって、

完全にしんどいことから逃げる癖が
ついてしまいました。

次は

「自分は何も考えず生きてた、言い換えると皆はそんなに考えているのか。」

についてです。

これに関しては、当時付き合ってた彼女と
喧嘩した時に気付きました。

結構彼女をおちょくったり、
嫌な思いをさせたことがあります。

さすがにひどいな、、、

と自分でも思うことをしていました。

その時に「私はこう思ってる」であったり、
彼女の友達を通して「彼女が何で怒ってるか?」を伝えてもらいました。

そこで僕は

「え、皆そんな深く考えているんだ。俺何も考えてなかった。」

って思ったんですよね。

僕のスタンスは基本こうです。

「楽しかったらいいじゃん」
「やりたかったらやっちゃう」

特に深いことは考えずに
行動や発言をしていました。

でも彼女と付き合っていく中で

「皆、結構いろいろ考えて生きてるんだな。」

と気付くことができました。

高校時代の話は以上になります。

大学時代

大学時代の出来事は今の僕に
かなり影響しています。

僕は大学では英語を専門に
勉強していました。

コロナの影響でなくなりましたが、
アメリカと中国に1年間の留学予定もありました。

大学生かつコロナ禍ということで
大量に時間ができました。

なので、僕はその時から
本を読むようになりました。

ジャンルは主に以下の2つです。

・ビジネス書
・自己啓発

そして、この時に読んでた本が
今の僕の考えにとてつもなく影響をしています。

当時、思考停止で崇拝、盲信してた人がいます。

それが以下の人たちです。

「西野亮廣」
「ホリエモン」
「箕輪厚介」
「ひろゆき」

分かる人は「はいはい、その辺の界隈ね」

という感じだと思います。

大学生の時に僕は
この人たちの本を相当読み込みました。

「死ぬこと以外かすり傷」は本当に
タイトルそのままの意味でメッセージを受け取っていました。

「なんでもやってやろう!」

と思っていました。

当時の僕はぼんやり

「お金を稼ぎたいなぁ。」

という風に考えていました。

しかも楽に。

思考がとても浅かったので、
文面そのままの意味で受け取ることしかできませんでした。

そして、コロナ禍に日本では
副業ブームが来ます。

色々読んでた本やX(Twitter)を見ると
こういう情報をよく目にしました。

「将来の日本はやばい」
「日本の経済は伸びてないしこれから落ちていく」

こういう情報です。

僕はこの情報を見て

「お金を稼げるようになりたい!」

と強く思うようになりました。

正確には

「スキルをつけて稼げるようになりたい」

と思っていました。

要は会社員的な働き方ではない
ということです。

僕には会社員の働き方が
向いていないんですね。

人に縛られるのが嫌いなので。

タイプとして合わないんです。

就業時間が決まっている時点で
僕はもう嫌になってしまいます。

嫌いな上司に怒られるのも嫌だし。

まさに社会不適合者という感じです。

「サラリーマンになりたくないなぁ。」

正直なところ、小学生の時から
こう思っていました。

こういう想いと当時の副業ブームが重なり、
僕は副業を始める決心をします。

これが大学2年生の時ですね。

副業挑戦スタート〜大学編〜

ここからは僕が大学卒業するまでの
副業挑戦の時代に入ります。

僕が大学時代に挑戦した副業はこちらです。

  • 動画編集
  • X(Twitter)運用
  • ココナラ
  • ブログ
  • 切り抜き動画

僕は最初に、動画編集を始めました。

理由はマックスむらいさんという方です。

僕は学生時代に「パズドラ」という
スマホアプリにハマっていました。

そして、パズドラをやっている人の中では
マックスむらいさんという方が有名でした。

その方はApp Bankという会社の人でした。

そして、その会社の業務の一つに
動画編集がありました。

マックスむらいさんの動画は
中学生から見ていました。

なので、中学生の時から

「動画編集をやってみたい!」

という思いがありました。

だから動画編集をやりました。

まずは動画編集用の
X(Twitter)アカウントを作りました。

そこで情報収集をしました。

そしたら、ある人から
一本のDMが届いたんです。

それが「動画編集をメインに仕事にされているんですか?」

という内容でした。

当時はメインの仕事どころか、
情報収集をしていただけでした。

その方とDMをして、結果的に
ある動画編集スクールに入ります。

特に動画編集のことも分からず、
DMで少し話しただけで、スクールへの加入を決めました。

その額50万円です。

当時大学生の僕にとっては
50万円なんて大金でした。

だから、スクール代は
親に払ってもらってました。

その後、バイトをして親に返す。

そうして僕は動画編集スクールに入ります。

しかし、これが大きな失敗でした。

結果から言うと、動画編集では
1円も稼げるようになりませんでした。

原因は以下の2つです。

①想像していたより労働集約型だった。

②作業量の多さに耐えきれなかった

主にこの2つです。

動画編集スクール自体の質はよかったです。

練習用の動画、画像素材が用意されていて、
動画を作成します。

それを講師の先生に提出して、
添削を受けます。

ひたすらこれを繰り返して、
スキルを磨くというものです。

でも僕はマックスむらいさんを見て
「動画編集をやりたい!」と思った人間でした。

要は、そこまで熱い想いはなかったんですね。

だから実際にやってみて、

「あ、やっぱしんどいわ。やめよ。」

そう思っちゃったんですね。

そこでまたまた、次の失敗が訪れます。

動画編集で行き詰まっていたタイミングで
また新たな出会いがあります。

ある一件のDMが届きました。

もうこの流れで怪しいですよね。

そのDMを送ってきた方は

なんと、17歳で月収70万越えの方でした。

プロフに書いてあるその文言を見た時は、衝撃が走りました。

「自分より若い人がそんなに稼いでいるのか。すごすぎる。羨ましい。」

こう思ったので、とても前向きな気持ちで
やり取りをしていました。

そうすると、一度通話をしましょう!

となったんです。

僕からすると、嬉しいことだらけですよね。

そんなに稼いでる人と通話できるなんて。

僕はその通話を
とても楽しみにしていました。

いよいよ通話当日がやってきます。

その通話相手をAさんとしましょう。

その通話では、

「Aさんが過去にどうやって稼いできたか?」

これをメインに話していました。

その後、僕はどうしたら稼げるか?

みたいな話をしました。

簡単に言うとこういう流れです。

師匠がいる→師匠にビジネスを教えてもらう→そしたら稼げるようになった→だからバンさんもその師匠に教えてもらいましょう

こういうシンプルな話ですね。

そして、なんとその通話をした週末に
AさんとAさんの師匠が一緒に作業会をするというんです。

「その場に来て、師匠から直接話を聞きませんか?」

こう言われます。

当時はコロナ禍真っ只中で、
外出もほとんどしていない状況でした。

だから僕は、その作業会に行くことを躊躇していました。

でも通話の中である一言を言われたんですね。

「成功する人は即決する人ですよ。」

僕はもちろん成功したかったです。

だから、その一言を言われて
すぐに作業会に行くことを決めました。

今思うと、完全に誘導されていますね。

でも当時の僕は、
言われるがまま行動しました。

で、その作業会に行ったら
さっそくAさんの師匠は遅刻をしてきました。

しかも1時間。

この時点で僕は怪しいと思いました。

でも

「稼いでる人は忙しいのかな。」

こういう風にも思っていました。

ここで踏みとどまっていれば、
この後の悲劇は起こらずに済んだんですけどね。

1時間遅れでAさんの師匠が到着しました。

そこではいろんな話を聞きました。

・バン君は将来なにがしたいの?
・どれくらいお金を稼ぎたいの?
・今何をやるべきか分かってるの?

これら以外にも色んなことを聞かれました。

そして、僕の質問に対して
Aさんの師匠は的確に答えを返してきました。

正直言って、当時の僕は
何を言ってるか全く理解できていませんでした。

でもこう思ったんです。

「これだけビジネスの知識を持ってる人すげぇ!
こんな人と出会えて繋がれる機会滅多にないやろ!」

当時の僕はビジネスの知識なんて0です。

集客ってなに?ということすら分かっていませんでした。

だから「こんなにビジネスの話をできる人はすごい!」

って思ってしまったんですね。

で、その人からある提案をされます。

「こういう風にビジネスを学んで稼げるコミュニティがあるんだよ。しかも、メンターが1人ついてつきっきりでビジネスのコンサルをしてくれるよ。もし興味があったら入ってみない?」

こういう提案をされたんですね。

で、当時の僕は即決で
「入ります!」と答えました。

費用すら聞かずに。

そこから、契約書の話やコンサル費用の話に移りました。

このコンサル費用も動画編集スクールと同様で50万円でした。

当時の僕はめちゃくちゃ迷いました。

「すでに親に50万円借りてる。また借して欲しいなんて言えない。バイト代も少ないしどうしよう。」

僕の頭の中に「コンサルを受けることを辞める」という選択肢はありませんでした。

でも結果的にコンサルを受けることになりました。

じゃあ、どうやって費用を払ったのか?

勘のいい方はもうわかりますよね。

そうです。消費者金融で借金をしました。

そして、新しいクレジットカードを一枚作りました。

現金+クレジットカードでの分割払いで
なんとかコンサル費を払うことにしました。

「すぐに稼げるようになるよ」

という甘い言葉を言われて、それを信じ切っていたんですね。

だから「バイトをして、コンサルで教えてもらいながら稼いだらいいや」

という風に考えていました。

そしていざコンサルが始まったんですが、
ここで雲行きが怪しくなってきます。

まず最初にX(Twitter)のフォロワーを500人集めろ

と言われます。

しかもそのやり方は、全く教えてもらえませんでした。

「コンサルってなに?」

と思いましたね。

そこから1ヶ月は自力で
フォロワーを500人まで増やしました。

日付が変わってすぐの0時のタイミングで「おは戦」
というハッシュタグをつけてポスト(ツイート)をしていました。

そこで同じようにおは戦ポストをしてる人に
1時間ほどリプ回りをしていました。

「おはようございます!今日も1日頑張りましょう!」
みたいなリプです。

いや、夜やのにおはようございますってなんやねん。

って思いますよね。

でも、相手も「おはようございます!」
って返してくるんです。

そして朝は6時起きて、
またリプ周りをしていました。

次は12時にポストして、またリプ周りです。

次は18時にポストしてリプ周り。

今思うと、それで増えたフォロワーが
どう売上に繋がるんだ?としか思えないです。

1ヶ月ぐらいそれを続けていたタイミングで
借金をしていたことが親にバレます。

当時は動画編集スクール代を親に返していました。

そのお金は親が僕の銀行口座から
親の銀行口座に移すという形でした。

だから当然、僕の銀行口座から
お金を引き出した時にバレますよね。

当時の僕はそこに気付かないぐらい
ポンコツでした。

そこで親に借金理由を話して、
冷静な第三者の目線が入って初めて、

「あ、これは詐欺なんや。俺は騙されてたんや。」

と理解し始めました。

正直、コンサル費用の50万円を払ってる。

その時点で引くに引けなくなっていたのは事実です。

でも親のおかげで、そのコンサル関連の人とは
連絡を取るのもきっぱりやめました。

そこから僕は副業が怖くなってしまいました。

「やっぱり社会も知らん俺が
副業で稼げるわけないんかなぁ。」

そう思ってしばらく副業を辞めます。

時は大学4回生まで飛びます。

就職活動が終わって、
あとは大学生活を楽しむだけ。

この時期はコロナ禍も落ち着いて、
外に出ることも日常的になっている時期でした。

僕はただ大学の授業を受けて、
バイトに行く生活を送っていました。

大学のない日はバイトだけですね。

「なんか面白いことないかなぁ」

と思ってゲームをしまくったり
YouTubeをたくさん見ていました。

でも、やっぱり心は満たされていなかったんです。

それはコンサルに騙されて
副業を諦めた日からずっと心のどこかで

「ビジネスをやりたい!」

と思っていたからです。

そこで僕はもう一度、
副業を始めることにしました。

始めたのは「ココナラ」というプラットフォームで
自分の商品を販売するという副業です。

ここで2つの商品を出しました。

①習慣化のサポート

②英文法の解説

ぶっちゃけなんとなくやっていたので、
あまり記憶にはありません。

でも、ここで初めて

「ネットでお金を稼ぐ」

という経験をすることができました。

習慣化のサポートでは
リピーターの方がついていました。

英文法の解説の商品も
何人にも購入されました。

「今まで色んな先生に教えてもらってきたけど、
ダントツで一番わかりやすかったです!」

という声を何人もの方から
もらった時は嬉しかったですね。

でも正直、なんとなく商品を作って
置いているだけでした。

だから当時は、自分の商品が売れてる理由が
自分でもわかっていなかったです。

今振り返ると、口コミが良かったからだと
分析はできています。

でも、当時はそんなこと分かってなかったです。

だから自分の商品をずっと売れるようには
できなかったんです。

つまり、継続的に稼ぐことはできなかったんです。

そして、ついに大学を卒業して
会社員になるタイミングがやってきます。

絶望の会社員編

冒頭にも書いたように僕は

新卒で入社した会社をたった1ヶ月で辞めました。

理由は適応障害です。

働いていた会社は「塾を経営する会社」です。

十分な研修もなく、4月からいきなり教室での勤務でした。

僕は副教室長として、120人以上の生徒がいる教室で働くことになります。

社員は上司の教室長、僕、事務の人。

この3人でした。

そこで、毎日新しいことを覚えないといけない。

でも、教室長は忙しそうにしてて
とても質問できる雰囲気ではない。

6月には夏期講習前の面談があって、
いきなり僕が面談をしないといけない。

だから、生徒の顔と名前を一致させるのは当然。
その上で、生徒の成績や志望校、志望校合格のための道筋。

これらを面談で話せるようにならないといけなかったです。

当時の僕にはこれが耐えられなかったんです。

しかも生活スタイルも厳しかったです。

仕事から帰って家に着くのは23時半頃。

そこから、ご飯とお風呂を済ませたらもう2時前。

正直食欲もなかったし、お風呂もめんどくさかったです。

だから夜ご飯を食べない日は何日も続きました。

「さすがにシャワーぐらいは入らないと…」

と思ってシャワーだけして寝る。

そんな生活が続いていると、だんだん
気力が湧いてこない状態になっていきました。

何をするにも力が湧いてこないし、
出勤中の電車では動悸が止まらなくなりました。

そういった中でなんとか
ゴールデンウィークまでは働きました。

「ゴールデンウィークでは気分転換をすれば大丈夫!」

そう思ってたんですが、
全く大丈夫ではありませんでした。

ゴールデンウィークがあけて、仕事に行っても
状況は何も変わりませんでした。

そこで、親からの勧めで
心療内科に行くことになりました。

その結果、「適応障害」と診断を受けました。

診断を受けた瞬間は
「驚き」と「安堵」の気持ちでした。

「まさか自分が適応障害になるなんて…」

という気持ちと

「これでしばらく仕事を休める。。。」

という気持ちでした。

そこから休職期間を経て
8月中旬に退職しました。

副業挑戦スタート〜ニート編〜

僕は休職期間中に副業を始めます。

時期的にいうと、2023年の6月末です。

ある日X(Twitter)を眺めてると、
1人の発信者を見つけます。

その発信者の方は大学生でした。

その人の発信を見ると、大学生ながら
お金を稼いでるっぽい。

そこで、その人の発信を見ていると、ある商品を買って、
その商品に書かれている内容で稼いでいる。

そういう内容の発信をしていたんです。

そこで以前の僕ならすぐに飛びついて、
その商品を買っていました。

でも、一度詐欺のコンサルに騙されています。

さすがの僕でも学んでいます。

「その商品で本当に稼げるのか」

と思って数日間、冷静になる時間を作りました。

でもやっぱり、その商品のことが気になったんですね。

で、商品の購入者がその商品名の
ハッシュタグをつけて実績報告をしていました。

だから、とにかく実績報告を見まくりました。

その結果、「これを実践すればちゃんと稼げる!」

という結論に至り、購入しました。

そうすると、なんと、、、

初月で15,940円を稼ぐことができたんです。

そして、その商品の購入者と
X(Twitter)で繋がりを持ちました。

そこから、その人たちの影響で
思考やマインドを変えることができました。

その結果、2ヶ月目で
15万円を稼ぐことができたんです。

この内訳には、購入した商品の売り上げもありますし、
自分で作った商品の売り上げもあります。

なんせ、僕はこの商品に出会えたおかげで
ネットで稼ぐという経験をできました。

そして、2023年6月末に購入して
2024年2月現在でも毎月収益を出すことができています。

それだけ副業初心者でも
再現性高く稼げる商品はこちらです。

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錬金の聖典
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商品名は「錬金の聖典」。
商品作成者は「黒い商材屋」さん。

僕のこの人の商品のおかげで
稼ぐことができています。

でも、もっと大きな額を稼ぎたい!

そう思うようになりました。

だから、僕は自分の商品を持つことを決めました。

初めて僕が売った商品はこちらです。
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僕はこの商品は50部以上売れてる商品となり
購入者の満足度も高い商品となっています。

X(Twitter)でも交流してる人から
感謝の声を頂いてます。

「バンさんがいたからここまで発信を続けられています!」
「バンさんの発信のおかげで忘れかけていた自分を取り戻しました!」

などここでは紹介しきれないほどの
感謝の声をいただいてます。

僕はこれからも人の役に立てる存在になりたいと思っています。

今の僕は、錬金の聖典と
自分の商品で稼いでいます。

幼少期から恥ずかしがり屋で引っ込み思案。
仕事を始めても適応障害になっちゃう自分。

そんな僕でもネットでこうして稼げています。

でも僕は、こんなところで止まるつもりはありません。

もっともっと先に行って、
見たことない景色をみます。

かなり長かったですね。

この記事を読んでくれたあなたなら

・僕がどんな人間か
・僕がどんな人生を歩んできたか

もう十分伝わったんじゃないかと思います。

それでは、最後まで
ご覧いただきありがとうございました。

バン

はじめまして、バンです。

 

情報発信ビジネスをしている人です。

 

開始初月から1万円以上の収益を上げたり、2ヶ月目には15万円以上稼ぎました。

 

上手くいってるように見えますよね?

 

でも僕の人生はそんなに
簡単なものではありませんでした。

 

過去には会社員をしていたことあります。

 

新卒で塾を経営する会社に入社するも、
たった1ヶ月で適応障害になる。

 

結果的に4ヶ月後には退職します。

 

そういった過去をもっています。

 

大学生の時はコロナの影響で
留学の予定がなくなる。

 

などなど色々な経験をしています。

 

そんな僕のことを知りたい人は、
ブログを読んでください。

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